お読みくださる皆さまへ:

このブログでは、
1.おもに日本語で手に入る資料だけでも
2.視点を変えることで
時代が求めるものを理解し、時代の大転換期である今の世界で、
問題山積みの日本はどうしたらいいかを、考えていきたいと思います。

■民主主義の本質とLGBT論争の関わりとは?

7月発売の[新潮45」8月号に自民党の杉田水脈衆院議員が「性的少数者(LGBT)には“生産性”がないので支援するのは疑問」というエッセーを寄稿。非難が巻き起こりました。

それに反論するため組まれた10月号の特集がさらに批判を呼び、ついに新潮社社長が突如【新潮45】を休刊した、という事件が起きました。

デジタル化によって本や雑誌など紙媒体のメデイアが売れなくなったという世界共通の社会現象はさておいて、LGBT問題はパラリンピックという発想と根は同じ、民主主義の本質とかかわっていると私は思います。

まず、米国はリーガルコードの国、つまり法律重視の文化圏で、日本はモラルコードの国、人間関係重視の文化圏。両国は発想も価値観も真逆です。

それで、法律やルールの新しい概念は新しい用語として米国から次々に日本に移入され、日本はリーガルコードについては米国の植民地のようになりながら、これらを人間関係や人間の属性から読み解こうとしています。

DiversityもLGBTも米国ではもともと社会(とりわけ職場)における差別をやめてほしいという、悲壮な叫びや怒りから出てきました。

Diversity(多様性)は日本でいう“十人十色”という意味ではなくWASP(ホワイト・アングロサクソン・サバーバン・プロテスタント)と言われる白人エリート保守派の支配層に対する反発、LGBTは日本のようにその異色性から芸能界で活躍できる環境とは程遠く、キリスト教の教えに基づき罪の烙印をおされる不平等への抗議、が根本のところにあります。

神の前ではすべての人が平等であるはずなのに、あまりにも差別がある現状に対する抗議の叫びなのです。この“差別”について、私が米国に25年住んでいるあいだに民主主義の原理ってそういうことなのかとわかったので、それを皆さまとシェアしたいと思います。

それは、「恵まれない環境に生まれてしまった人たちやハンデイキャップを背負っている人たちを支援し、みんなが対等に平等になるようにする」という考えです。例えば国際線で航空機の整備が終わった後、身体障害者や子ども連れのお客を先に乗せる、企業の建物、スーパーマーケットなどに一番近いところにゆったりした障害者専用のパーキングロットを設定し、普通の人はどんな理由であれ使えない、など、ハンデイキャップがあるひとを正常なところまで優遇するのがリーガルコード文化圏発のルールになっています。

パラリンピックは戦争で負傷した兵士たちのリハビリとして20世紀半ばに英国で始まったそうですが、身体的にハンデイキャップがある人も普通の人と同様にスポーツ競技大会を楽しめるのはまさに民主的、人道的な精神の表れで、賞賛すべきだと思います。

同時に、ハンデイキャップがある人を優遇し、全員が対等に平等になったら目的を達したわけで、それ以上特別視しないのがルールの延長線、ですからLGBTは子どもを産まないから生産性がない、だから支援するのは疑問という杉田議員の意見は本筋から外れています。

日本や中国のような人間関係中心の文化コード圏では、家族に身体障害者がいると隠したり、障害者を一級下の人間とみなしたりしてきました。スポーツをリハビリにというアイデイアはあっても、パラリンピックという発想は出てこないでしょう。

■文化コードの先の世界へ

しかし、単純にリーガルコード文化圏のほうがあらゆる面でフェアだと言っているわけではありません。LGBTに罪の烙印を押しているのはキリスト教ですし、日本には人種間の激しい差別も経済上のすさまじい格差もありません。

私たちがいま始めようとしている<グローバル・アイ>運動は、リーガルコード、モラルコード、レリジャスコード(=神の教え重視)文化圏の特徴を理解したうえで、

世界全体を俯瞰し、何コード文化圏に生まれても地球上に生命をもらった74億人の人たちはみな初めから対等で平等だとみなす世界観を持つことです。

高みから見下ろすと、人間はみな同じ身体構造を持っていますし、多少の優劣の違いも大したことはありません。

21世紀には人類個々の違いよりも、共通性をみることが重要だと思います。

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